聖ヨゼフ修道会
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●格言の分かち合い

+キリストの平和!

私たちの修道会のホームページを見て下さっている皆さん、こんにちは!

ご復活おめでとうございます!新しい命の息吹を感じる今日この頃、自然界も美しく装いを変え、主のご復活を共に讃美しているようです。主の御受難から御復活への過ぎ越しのプロセスの中で、私たちも、何か、以前には重要と感じていたものを手放すよう、招かれています。「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」(エフェソ4:22〜24)るようにという、主からの呼びかけです。

私たちのうちで、御復活が起こる時、私たちの心から石が取り除かれますように!

そして、私たち一人ひとりが、すべてに新しい命を吹き込んで下さる、復活された主を見つける庭に変えられますように! アレルヤ!アレルヤ!

今月の格言はこちら


私たちの修道会の創立者が遺してくださった100の格言の分かち合いを続けます。17世紀に私たちの修道会を創立したメダイユ神父様の着想は、当時としては全く自由とも言うべき刷新的なものでした。現在に生きる私たちをも、愛なる霊の導きに応え、主イエスの御跡に従おうという熱意に駆り立てて下さいます!
皆さんにそのカリスマをお伝えしたいと思います。そして、信仰の道、神への旅路を続けられる皆さんの小さなヒントになればと願っています・・・。祈りをこめて・・・。


(格言1)
あなたの召し出しの目的が崇高なものであることを、いつも心に留めていなさい。謙遜、優しさ、聖性に満ちた生活に反するいかなることも、決して行うことがありませんように。

分かち合い
聖ヨゼフ会のシスターとしての召命の中心は、「神との一致」です。それは、隣人との一致を含み、メダイユ師は、「全面的二重の一致」(Total Double Union)という言葉を遣って、繰り返し、シスター達に呼びかけました。何よりも神のご計画を捜し求め、心の目、魂の耳で、注意深く見聞きするように勧めました。私たちの召命は、内的なものだからです。何かを果たすというよりは、自分を捧げ尽くす存在として、皆がひとつになる(ヨハネ17章)という目的に向かって生きるのです。一致とは、日々の観想によってもたらされます。私たちは、一致という神秘的なプロセス、神の創造の秘儀に与るようにと招かれています。言うなれば、私たちはそれほど、神に愛された価値ある存在なのです。

振り返りのヒント
*一番最初の神との出会いはどのようなものでしたか。


(格言2)
あなたの内的存在、あなたの徳、行いに対して、「あなた方の神が完全であられるように、あなた方も完全でなければならない。」(マタイ5:48)ということを、原則としなさい。すなわち、神のより大いなる栄光をもたらすすべてのことを大切にし、神の聖なる御旨によりよく従い、神の御目により喜ばれる者となりなさい。

分かち合い
(概ねの)徳や行いに対する内的なルール:完全であること;すなわち、絶え間なく創造されるすべてのものにこめられた無償の愛の証しとして、神の創造の御業を表わすような建設的な想像力と善性のすべてを大切にすることです。
ちょうど神がそうであられるように、全存在をかけて、すなわち、すべての行い、すべての言葉、すべての思い、すべての目的を通して、そのルールを大切にしなさい。
神の聖なる御旨・・・神の真のお望み、すべての創造物がひとつになるようにというお望みは、私の内に、私を通して、実現するのです・・・。
(この分かち合いは、コンコルディアの聖ヨゼフ修道会のシスターマーシャ アレンの内省です。)


(格言3)
あなたを愛するあまり、自己をむなしくされた(フィリッピ2:7)受肉された御言葉を讃え、絶えず自分を無にしなさい。できる限り、誠実で、真実で、深い謙遜を実践し、あなたの奉献生活を生きなさい。あらゆる機会に、すべての人々に対して、とりわけ神に対してそうありなさい。あなたの修道会のすべての恩恵は、神が与えて下さったのですから・・・。

分かち合い
(この分かち合いは、「コンコルディアの聖ヨゼフ会」のSr.Marcia Allenの分かち合いから引用しています。) 「自己を無にしなさい」・・・“aneantissement”・・・ということは、私が本当にあるがままの自分自身を知るようになることです。私であること、完全な真の、内的な自分自身を意味します。誰かになるというような無意味さから離れた真実の人・・・自分自身との関わりから始まる、全く偏見のない関係を生き、自分の人間性を認め、また、抱きしめながら、同時に自分の人生の目的を知っている人です。・・・すべては、心得た愛を「捕らえる」瞬間であり、その愛は、キリスト・イエス、その方だということを知ることです。 利己的な努力、利己的な必要性、利己的な動因なしの・・・無となった自己;それは、常に本当に真実であることのために生きることです。愛のための自己受容;最高の敬虔さです。 すべての創造物、すべての状況に対して、恭しくありなさい。最高の受容、最高の愛を持ちなさい。


(格言4)
神に向かって、あなたがなし得る限りの最も純粋で完全な愛徳の行いを、絶え間なく、聖霊の誉れのために行い、そのように生きなさい。

分かち合い
全く無にされた自己、完全にそれ自身と「一つ」になった自己、それは、唯一つの目的・・・交わり・・・を意味し、自己本位というみみっちい特質から脱し、単に私が自分自身であることに留まらず、関わりをもつ者へと解放され、完全に私であるということです。
聖霊の「捕らえる」愛のうちに、私は、三位一体のダイナミックな交わりの中に招かれ、創造されたすべてのもの、そしてその創造主と一つである私自身に気付きます・・・これは、生来、人間の心の憧れであり、また、すべての被造物はそのように創られているのです・・・神の愛の充満の中で生きるように・・・。
この格言の実践は、すなわち、この瞬間を敬虔に生きるということは、すべてに対する神の完全な慈しみのうちに、私をおくことです。神と一つとなることです。
これは、魂の心がけです・・・私は、関わりの大切さを認めていますし、関わりの中にいる自分を理解しています・・・私は、実際に交わりをもっていますし、交わりを切に望んでいます・・・そして、これは聖霊の働きです。


(格言5)
この世とその一切のことを損失とみなしなさい。(フィリッピ3:8) この世は、あなたに対して、十字架にはりつけされ、死んだものとし、また、あなたもこの世に対して死んでしまった者となりなさい。(ガラテヤ6:14) すなわち、この世の有様は、すべて過ぎ去ってしまうものですから、この世の事にはかかわらないようにしなさい。そして、虚偽と不信仰に満ちた世の知恵にしたがわないようにしなさい。

分かち合い
特に、人は、この世界を「愛してしまい」がちであるのに、この霊性が語る、かかわらないようにすべきこの世とは、一体何でしょうか・・・この召命のエッセンスは、どの人も、神を見つけ、神を愛する場所である、この世を愛する途上にあるということが前提となっているのです・・・では、過ぎ去ってしまうものを暴くということには、どういう意味があるのでしょうか。退けるべきこの世の知恵とは、何でしょうか。そして、私は、どのようにその空しさを、見極めるのでしょうか。
その世の眺め、音、味わいは、どんなものですか。また、もう一つの世界のそれらは、どんなものでしょうか。
このはりつけとは、どんな感じがするのでしょうか。どのように、私は、それを認めるのでしょうか。どのように、私は熱心にこの世を愛するのでしょうか。熱心に愛することによって、私はこの世にはりつけられ、死んだものとなり、また、この世も私にとって、死んだものとなるのではないでしょうか。
そして、もし、この苦難(はりつけられること)がおこるなら、私は、どのようにそれを認め、敬い、抱きしめることができるのでしょうか。


(格言6)
「古い人を脱ぎ捨てなさい。」 そうすれば、「新しい人を身につけられる。」(エフェソ4:22-24) その結果、この世と自己愛に死んだ生活をし、柔和、心の謙遜、真の誠実さ、つつましさ、内的、及び外的な平和、隣人に対する愛徳に満ちた生活ができるのです。つまり、あなたのうちで育てるべき、イエスの聖性、諸徳に全く倣った生活に導かれるのです。このように、あなたは、神の恵みによって、多くの人々を引きつけ、あなたの模範と会話は、彼らのためになるでしょう。

分かち合い
この格言はとてもかなわないものです。しかし、それは、度々、不快な意が含まれる苦行を実践することに関係があります。イグナチオやメダイユ、真のイエズス会士にとって、自分のために企てた苦行は必要ではありませんでした。しかし、他者のために捧げた生活は、結果として、当然、そのようなことを要求されるでしょう。
使徒職の奉仕において、人は、苦難をはらんでいる人生を抱きしめます・・・すなわち、絶えず、他者のために自分を脇におくこと・・・この選択の必要性を抱きしめることは、使徒の苦行のことです。

メダイユ師は言います。もし、イエスのなさったやり方を思い出すなら、それは、更にもっと易しくなるでしょう・・・そして、それについて心配したり、計画したりしてはいけません・・・神の恵みが働かれるからです。しかし、あなたの中で、どのようにそれが起こっているかに目覚めていなさい。何故なら、それは、恵みだからです・・・その恵みは、あなたの内で行われる神秘の証し人となる、多くの人々を引きつけます。これは、従順、謙遜、個人的な私たちのための神の愛すべきお望みへの・・・すなわち、最も価値のある苦行への呼びかけです。
(この分かち合いは、コンコルディアの聖ヨゼフ修道会のシスターマーシャ アレンの内省です。)


(格言7)
非常に謙遜な召命に顕著な熱意を表わすのに、最も熱烈な者の熱意に倣い、真の謙遜と惜しみない勇気に満ちた精神で、世界の完成と救いの望みを抱きなさい。このことは、神の栄光を高めることと愛すべき隣人の救いのために、すべてを成し、すべての苦しみに耐え、何事もやりたいという望みをあなたのうちに起こさせるのです。

分かち合い
「しるし」は、使命において、どのように私たちがふるまうかに関係があります。謙遜な召命にかかわるふるまいは熱意です。これは、もともと、イグナチオの霊性に度々見られる聖戦への衝動から来る表現でしょうか。最後の文章は、明らかに、聖戦への招集文献に見られる言葉です。しかし、それは、非常に謙遜な召命の特徴です・・・全く反対の行いでありながら・・・;謙遜な熱意・・・何ものをも恐れない心の寛大さ、何故なら、それは、既に何もないのと同じです。神がすべてでいらっしゃるのですから・・・。
フランス語の「全くの謙遜」と「寛大な勇気」という言葉は、神の栄光と隣人の救いのために、すべてを苦しみ、企てるということに、私を「駆り立てます。」・・・熱心な人々の中で使徒的働きをされるのは神であるというメダイユの教えに一致するように思います。
(この分かち合いは、コンコルディアの聖ヨゼフ修道会のシスターマーシャ アレンの内省です。)


(格言8)
あなたの決心を揺るぎなくもち、やり始めたことが首尾よく果たされるという希望を抱きなさい。自分の非常な弱さを知り、自分に対して全くの不信を抱く中でも、同時に、神にしっかりした信頼を置きなさい。というのは、神には、おできにならないことは何もないからです。また、神の恵みの働きを通して、従順によって、神の栄光のためにあなたが行うすべてのことにおいて、神は、いつも、あなたを助け導いてくださるからです。

分かち合い
「無限の弱さ」、「全くの確信」を、フランス語では、“defiance and confiance”と言います。・・・すなわち、従順とは、愛なる聖霊の導きに完全に応えることです。・・・私は、私自身を置いている状況での愛の働きに、心から素直です。
どんな成功や、決心の強さ、確信を持っていても、私は、それらは私に何の関係もなく、すべては神のなさることで、私を愛への応答に開かれているようにとして下さる、神の恵みの賜物に関わっているということを知っています。
これは、私たちのための神の恵みと無償の慈しみに対する畏敬の念(感謝のうちの観想)を私たちに保たせる神秘です。
(この分かち合いは、コンコルディアの聖ヨゼフ修道会のシスターマーシャ アレンの内省です。)


(格言9)
あらゆる虚栄や自己満足、そして、善行を汚すような、すなわち、あなたの人生を通して働かれる神の恵みの妨げになる疫病のような、恩寵に対する不忠実さを常に避け、それらに抵抗しなさい。

分かち合い
メダイユ師は、「疫病」という言葉を、故意に使っています。彼のイエズス会管区は、17世紀の前半、ずっと、腺ペストに悩まされていたフランスの地域でした。これは、力強いスピーチです。私たちは、実際に起こることの中で生まれてくる心の傾向を知るように、勧められるのです。その中での動きに目覚めていることです。この人生の健康的な方法は、使徒的生活に要求される実践だからです。イグナチオの彼の初期の会員に対する訓戒は、いつも、目覚めていること、機敏であることを軸としていました。メダイユ師は、すべての格言を通して、何よりもまず、私たちが内的生活に敏感であることだと言っています。すなわち、段々と善行を害し、汚すような虚栄、ひとりよがり、つまらないことに容易にごまかされないことです。
(この分かち合いは、コンコルディアの聖ヨゼフ修道会のシスターマーシャ アレンの内省です。)


(格言10)
必要がなければ、あなた自身のことを、良くも悪くも言ってはいけません。自分自身についても、自分がなすことについても重んじることがありませんように。なぜなら、あなたも、あなたのなすことも、神の御前においては、何ものでもないからです。どんなに、あなたが、あなた自身を軽蔑したくなるような欠点で一杯であるかを、弁えていなさい。

分かち合い
私は、完全な愛であることができるのでしょうか?! いいえ。しかし、私は、ものごとをあるがままに見ることができます…神の御心(ご計画)のうちに…私は、私自身を、真にあるがままの私を見ることができないことを喜んでいます;同時に、私が、真にどのような者であるかについて、かなり良いアイデアを持っています…私は、このすべてを忘れ、全面的二重の一致のプロセスにある自分自身を失ってしまいます…すべては、神のためにあり、すべては、神によります;私がご計画の一部であることに、私は非常に感謝しています!
この「忘却」の類は、使命のために要求される苦行の、最も難しいところです…それは、透明さ、他者の前で自己を意識しない、素晴らしい特質です。それは、完全に私を他者の善のために、すなわち、完全に神のうちに神のためにあることに、解放するものです。


(格言11)
いつも、好意をもって他者について話し、彼らの中にある善を高く評価しなさい。そして、できるだけ、彼らがもっている不足を許し、かばいなさい。

分かち合い
他者の欠点が隠されるほどに、他者について、良く話していますか。一緒に住んだり、働いたりする人々と共に、事の核心に入り込む識別的な方法とこのこととは、どのように調和されるのでしょうか。あるいは、これは、ちょうど謙遜への試みでしょうか。自分を自慢しないことの正反対でしょうか?結局、神は本当のことをご存知ですから、私が何を加えることができるでしょうか。
おそらく、これは、メダイユのイグナチオ的背景と関係があると思います。それは、私たちに、すべてに好意的であること・・・疑わしいことも有利に解釈するように勧めるものです。
今一度、使徒であるための修行に出くわします・・・別のことを犠牲にして、思案や噂話にふけるものではないのです。・・・むしろ、大切なのは、douceur です。


(格言12)
永遠なるものを少しでも失うより、すべての不運な時を耐え忍びなさい。また、神の恵みを少しでも失うより、すべての悪い本性に耐えなさい。 というのは、信仰に照らされたあらゆる道理は、この真理に従って生きるように、あなたに教えてくれるからです。

分かち合い
これは、神の栄光のための熱意の明らかな始まりです。それは、本当に関わりがあること、私の人生は神のために、神のうちにあるということ・・・私が耐え忍んでいるすべてのことは、神のために、神のうちにあるということ・・・神、すなわち、物事の大きな核心、すべてのことの偉大な核心です。それ故、全面的二重の一致に私を開くこと以外のすべてのことは、取るに足りないことです。
ここで、私は、信仰の私のヴィジョンを思い起こします。すなわち、この世界の私のヴィジョンは何かというと、この世界を愛することを通して一つになることです。本当の私であるために個人的な苦しみを私に忘れさせることです・・・これは、熱意の応答です。


(格言15)
聖霊の恵みに非常に忠実でありなさい。聖霊に注意深く聴き、迅速に完全に従順でありなさい。そして、あなたの善行の成功によって得る栄誉を聖霊に帰しなさい。神は、その誉れを受けるに、ふさわしい方ですから・・・

分かち合い
この格言は、魂の3重の原動力を思い起こさせます。すなわち、記憶、知性、意志を・・・。意志は、聖霊の導きに対する完全な忠実さを呼び起こします。

これは、識別のモデルであるのと同じように、迅速に、完全に、そして注意深く、従順に・・・どのように行動に移すかというモデルでもあります。

この格言はリスクの要素を含んでいるでしょうか。

私は、聖霊からのシグナルで、働き始めます。残りの必要なことは与えられると信じて・・・。しかし、それについて心配しません。なぜなら、本当の成功というのは、私から隠されている何かそんなものです。とにかく、それは聖霊によることなのです。


(格言16)
どこにいても、何事においても、神だけを、そして、神の御旨と栄光だけを求めなさい。そして、その他の一切のことを重視しないようにしなさい。

分かち合い
何よりもまず、唯ひとつの関心をもつこと、すなわち神が喜ばれること、御計画を望み、そのために働くことです。これが、聖ヨゼフ修道会で言われる「共同体の秩序」です。
私の心と行い、御計画のための神の御望みが、完全に調和した時、秩序が保たれた共同体が実現されるのです。すなわち、私は神の御心を行い、行いにおいて神の愛であるということです。


(格言24)
 敬虔に自己を明け渡すことによって、神に全く委ねなさい。純粋で全く利己心のない愛によって神のために、また神のうちに神の現存をより意識しようとする絶え間ない努力によって、神に適った意志と生活とすべてのことによって、全く神に従いなさい。

分かち合い
ここで、犠牲が、くり返し要求されます。“aneantissement”、つまり、心の本質、すべてのことの中に神を見い出すことへの献身、神の御心と現存の識別、従順、神に奉仕するということ、つまり、これは、精神と霊性の要約なのです。
今一度、メダイユは、最も大切なことは、神の御計画の神秘を観想的に見ることであり、それに自分を明け渡すことであることを、私に思い起こさせます。


(格言26)
何事にも神が喜ばれることだけを捜し求め、他の一切のことを望まないこと… すさみの時も、病気の時も、あなたの全生活において、このことを覚え、実行しなさい。
あなた自身の関心ごとに思いを寄せることなく、神がより喜ばれることを望むことができるように…

分かち合い
何よりもまず、唯ひとつの関心をもつこと、すなわち神が喜ばれること、御計画を望み、そのために働くことです。これが、聖ヨゼフ修道会で言われる「共同体の秩序」です。
私の心と行い、御計画のための神の御望みが、完全に調和した時、秩序が保たれた共同体が実現されるのです。すなわち、私は神の御心を行い、行いにおいて神の愛であるということです。


(格言84)
軽はずみな熱心によって、恵みに先立ってはなりません。それどころか、その働きを静かに待ちなさい。そして、恵みがあなたに臨んだとき、非常な優しさと謙遜と忠実さと勇気をもって、その恵みに従いなさい。

分かち合い
創立者のメダイユ師は、ここでも、今、ここに生きることの大切さを教えて下さいます。ここ(現実)から、遠く離れないようにしましょう。たとえ、どんなに有益そうに見えることでも、過去や未来について、考えすぎることを神は望まれません。今、神が私に与えて下さっている恵みに、目を開きましょう。“Enjoy the moment!”「今を楽しみなさい。」明日、起きるかもしれない不確かなことに、頭を悩ますのはやめましょう。すべてのことは、神の御手のうちにあります。神の恵みの働きを待ち、それに満足していることです。何が起ころうと、私たちは神に信頼するように呼ばれています。

振り返りのヒント
* 今日・・・神があなたに下さった恵みを味わいましょう。あなたを取り巻くこの環境、この自然を通して・・・。そして、小さな出来事を通して、周りの人々を通して・・・。

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