●シスターテレーズ山本 その2
20歳の復活祭、両親には内緒で、洗礼を受けました。その頃、地元の教会では、青年会が比較的活発で、何人かの信者の友人にも恵まれました。教会での交わりを楽しみ、洗礼と同時に始めた社会生活でも、いろいろな立場の人々とのよい出会いがあり、充実した日々を過ごしていました。残業が多い毎日でしたが、会社帰りに、誰もいない教会の聖堂に立ち寄り、ご聖体の前で一人静かに祈るのが大好きでした。ただ、洗礼に猛反対だった両親に、なかなか受洗について打ち明けることができず、隠れキリシタン(?) の日々が続き、心では、受洗の喜びと共に、不安を覚える複雑な気持ちを感じていました。
小さい頃から、父が厳しく、何でも服従のような家庭で育ち、両親、特に父の意に反することを実行することは許されませんでした。それまでは、一度も両親に逆らったことはありません。おとなしく、特に両親の言いつけに従順で素直だった私が、親の反対を押し切って受洗することは、想像以上に大変なことだったのです。もちろん、迷いや葛藤もありました。しかし、大きな不安と恐れと同時に、不思議な安心感と、「これは実現する」というような確信が、心のどこかにありました。そして、それは、本当に出来事となり、かなえられました。
私の深い望み、どんなことがあっても消えることなく、絶えず心の中で起こってくるような静かな思い、神様が私と共におられ、神様も共に望んで下さっていると思えることについては、それからの私の人生においても、同じ心の味わいを体験しています。
受洗から3年後、修道院に入るために、初めて親元を離れた時もそうでした。八方塞で人間的に見れば可能性ゼロのような状況で、不安で迷い、泣きながらも、でも、心の深い部分では、「大丈夫、必ずかなえられる」と思える不思議な体験です。実際に全く希望がないと思える現実の中でも、一方では、不思議な出会いもあり、具体的な人々の助けに支えられました。何か、目には見えない不思議な力に導かれている、後押しされている感じがありましたが、両親のことを思うと、辛くて、苦しくて、修道生活への望みをあきらめようかと思った時もありました。そんな中で、「私」の視点ではなく、「神様」の観点で、物事を捉えることを学びました。その時、初めて本当に自由になり、心から、主の心を心とする恵みを戴いたように思います。そして、聖書の次のメッセージを受け取りました。
「わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。」(黙3:8)
御聖櫃の前で、この聖書の御言葉を聴いた時、私は大きな喜びのうちに、私が歩み出そうとしている道が、「神様」のお望みであると確信しました。その後も、感情のレベルでの不安や恐怖が消えてなくなったわけではありません。でも、震えながらも、それを越えたところで、自己の望みを貫いて生きる力、支えを戴いたのです。
家を離れて、更に3年の月日が経ち、いよいよ本格的に修道会に入会する時が来ました。入会の半年前に、8日間の選定の黙想に与りましたが、その黙想の間にも、家を出る時と同じような心の動きを体験し、具体的な聖書の御言葉を通して、ゴーサインを戴きました。ですから、今でも、いろいろなことが起こっても、その時の思いを思い出す時、自分の召し出しを信じることができます。
識別等、そんな言葉さえも知らないような私でした。でも、今でも、これらの体験から大切なことを学ぶことができます。あのような心の状態、表面的にはいろいろと揺れることがあっても、深い部分で、神様の現存と静けさ、優しさ、落ち着き、平和、安心感‥これらが統合されたような思いが感じられる時、それは、私にとって、神様からのゴーサイン、前に進むことのできる道しるべです。そして、実際に神様は、私が信じたとおり、出来事を起こして下さるのだと思っています。
|