聖ヨゼフ修道会
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シスターへの道-私の召し出し-

イエスは、「来なさい。そうすれば分かる。」と言われた。
そこで彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。
(ヨハネ 1:39)

シスター達は、それぞれ、神様の愛の呼びかけに応えて、ここに来ました。
一人ひとりの召し出しの道は、それぞれに違い、神秘に満ちています。

●シスターテレーズ山本 その2

20歳の復活祭、両親には内緒で、洗礼を受けました。その頃、地元の教会では、青年会が比較的活発で、何人かの信者の友人にも恵まれました。教会での交わりを楽しみ、洗礼と同時に始めた社会生活でも、いろいろな立場の人々とのよい出会いがあり、充実した日々を過ごしていました。残業が多い毎日でしたが、会社帰りに、誰もいない教会の聖堂に立ち寄り、ご聖体の前で一人静かに祈るのが大好きでした。ただ、洗礼に猛反対だった両親に、なかなか受洗について打ち明けることができず、隠れキリシタン(?) の日々が続き、心では、受洗の喜びと共に、不安を覚える複雑な気持ちを感じていました。

小さい頃から、父が厳しく、何でも服従のような家庭で育ち、両親、特に父の意に反することを実行することは許されませんでした。それまでは、一度も両親に逆らったことはありません。おとなしく、特に両親の言いつけに従順で素直だった私が、親の反対を押し切って受洗することは、想像以上に大変なことだったのです。もちろん、迷いや葛藤もありました。しかし、大きな不安と恐れと同時に、不思議な安心感と、「これは実現する」というような確信が、心のどこかにありました。そして、それは、本当に出来事となり、かなえられました。

私の深い望み、どんなことがあっても消えることなく、絶えず心の中で起こってくるような静かな思い、神様が私と共におられ、神様も共に望んで下さっていると思えることについては、それからの私の人生においても、同じ心の味わいを体験しています。

受洗から3年後、修道院に入るために、初めて親元を離れた時もそうでした。八方塞で人間的に見れば可能性ゼロのような状況で、不安で迷い、泣きながらも、でも、心の深い部分では、「大丈夫、必ずかなえられる」と思える不思議な体験です。実際に全く希望がないと思える現実の中でも、一方では、不思議な出会いもあり、具体的な人々の助けに支えられました。何か、目には見えない不思議な力に導かれている、後押しされている感じがありましたが、両親のことを思うと、辛くて、苦しくて、修道生活への望みをあきらめようかと思った時もありました。そんな中で、「私」の視点ではなく、「神様」の観点で、物事を捉えることを学びました。その時、初めて本当に自由になり、心から、主の心を心とする恵みを戴いたように思います。そして、聖書の次のメッセージを受け取りました。

「わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。」(黙3:8)

御聖櫃の前で、この聖書の御言葉を聴いた時、私は大きな喜びのうちに、私が歩み出そうとしている道が、「神様」のお望みであると確信しました。その後も、感情のレベルでの不安や恐怖が消えてなくなったわけではありません。でも、震えながらも、それを越えたところで、自己の望みを貫いて生きる力、支えを戴いたのです。

家を離れて、更に3年の月日が経ち、いよいよ本格的に修道会に入会する時が来ました。入会の半年前に、8日間の選定の黙想に与りましたが、その黙想の間にも、家を出る時と同じような心の動きを体験し、具体的な聖書の御言葉を通して、ゴーサインを戴きました。ですから、今でも、いろいろなことが起こっても、その時の思いを思い出す時、自分の召し出しを信じることができます。

識別等、そんな言葉さえも知らないような私でした。でも、今でも、これらの体験から大切なことを学ぶことができます。あのような心の状態、表面的にはいろいろと揺れることがあっても、深い部分で、神様の現存と静けさ、優しさ、落ち着き、平和、安心感‥これらが統合されたような思いが感じられる時、それは、私にとって、神様からのゴーサイン、前に進むことのできる道しるべです。そして、実際に神様は、私が信じたとおり、出来事を起こして下さるのだと思っています。

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●シスタージョアン・シュナイダー

私は、アルバン、アイリーン・シュナイダー夫妻の 長女として生まれ、二人の兄と共に、両親は私の誕生を大変喜びました。兄弟は、皆で8人、私たちは大きな家族になり、田舎の農場で幸せに暮らしました。

両親は、私たちが幼い頃から、神への深い愛を教えてくれました。私たちは、神様の創造物と、又、戴いているすべての恵みに、いつも感謝することを教えられました。私たちは、豊かではありませんでしたが、家族との日常生活の中で、クリスチャンとしての価値観を、自然に学ぶことができました。幼少の頃に、朝夕に祈ることを教わり、毎夕、家族でロザリオを唱えたことを覚えています。又、小さな田舎の教会からは少し離れた所に住んでいましたが、日曜日のミサとそこで人々と分かち合うことを欠かしたことはありませんでした。両親は、私たちに、どのように「隣人」を愛するかも教えてくれました。我が家を訪れる人は、誰でもお客様として迎え、おもてなしをしました。

 学校に通い始めてから、学校の先生であったシスター達と接するようになりました。彼らに好意をもち、彼らから深い影響を受け、彼らのようになりたいと望むようになりました。
 私が、初めて、深く神を体験したのは、初聖体の日でした。真っ白な美しいドレスに包まれ、キリストの花嫁であると感じました。その午後、祖母の家の台所で立っていた時、私は、「私に従いなさい。あなたは私のもの。」という声を聞きました。これは、私がシスターになることへの、イエスの招きでした。長い間、心の中でその呼びかけを大切にし、ずっと秘密にしていました。やがて成長し、たくさんの経験を重ねる中で、私は神の現存を確信するようになりました。神は私の近くにおられ、私も彼に近づくよう呼ばれていることを、感じることができました。

 13歳で8学年を終えた時、私は、修道院に入りたいと願いました。しかし、母が、若すぎるという理由で反対しました。私は、大変がっかりしましたが、自分自身に、今は無理でもそのうちにと言い聞かせ、どうしてもシスターになりたくて祈り続けました。又、高校に通いながら、私は働き、愛すべき「隣人」である他者を助ける日々を過ごしていました。そして、卒業と同時にその時が来たことを悟りました。今から50年も前の出来事ですが、昨日のことのように思えます。私は、ついに聖ヨゼフ会のシスターになるため、修道会に入会したのです。私は、本当に幸せでした。

 聖ヨゼフ会のシスターとしての生活は、最も大きな賜物であり、私の人生への恵みです。イエスの「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」という御言葉は、心から喜んで、イエスの足跡に従おうとする私を、日々、励まして下さいます。
 修道生活の初めの頃、私は小学校で教えました。私は、その仕事が大好きでした。何年か後、私は、宣教師として、日本の人々のために奉仕するよう呼ばれました。この呼びかけには圧倒させられましたが、再び、イエスの声を聞いたのです。「恐れてはならない。私が共にいる」と。

こうして、1965年に来日し、長年、養成の奉仕職に携わり、日本人の若い女性の同伴をしました。特に、霊的指導、黙想指導を通して、神が私に与えて下さった賜物を、人々と分かち合うことができました。
 ちょうど、私が呼ばれたように、今も神は、聖ヨゼフ会のシスターとして「隣人」に奉仕するよう、女性たちを呼ばれています。その方々が、内なる声を聴き、沈黙の祈りのうちに、神のお望みを知ることができますように。又、誰かに御自分のストーリーを分かち合い、疑問を聞いてみる勇気が与えられますように、祈っています。

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●シスタードロロサ村中

子供時代、両親は特別な宗教には属していませんでしたが、道徳的に神仏の教えに従って養育してくれました。幼児、思春期を第2次世界大戦中に過ごし、女学校卒業後は、母を助けるために、家事見習いと末弟の世話をしていました。

S神父様の布教活動が活発になった頃、「どんな話をされているのか」との好奇心で、子供に混じって、当時、郵便局の局長宅で始められた要理を聞くようになりました。そして、「真の神」とは如何なる方であるかを知り、受洗しました。小学校時代、最初に自分の存在と「自分が何者であるのか」という疑問をもちましたが、その疑問が解かれ、人としての目的を知るようになりました。受洗に先立ち、母の許しを請うた時、「一生、教えを守り通せるならば・・・」と許してくれました。その後、修道会入会まで、ロザリオ会のリーダーとして、週に一度、要理を学ぶ子供たちの家庭を廻ったりしました。
救霊から始まった入信でしたが、一生神の教えから離れず、「愛徳」の実践を行うことができるには、修道生活こそ最高であると思いました。聖テレジアの自叙伝に感化され、修道生活を知り、要理を始めた頃から、希望をもっていました。しかし、トラピストかカルメルの名前しか知らず、どのようにすれば修道院の門をたたくことができるのか全くわかりませんでした。ちょうど、そんな時、聖ヨゼフ修道会が来日し、神父様の紹介で入会することができたのです。
すべては、神の恵みと導きによるものとして、神に感謝!!

その頃から、父親譲りの短気、内弁慶も直り(?)、また、誠実、忍耐深さ、貧しき者への思いやり(?)、ユーモア(?)も、両親から受け継いだ遺産であると思っています。この賜物を活用し、本会の使徒的活動と神の国の建設のために、我が命の尽きる迄、神の摂理のもとにがんばりたいと思います。

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●シスターステラマリー松隈

私は、阿蘇山麓の小さな町に生まれました。私の両親は浄土真宗の信者で、本山である東本願寺(京都)に、数年に一回、団体でお参りに来る程度の仏教徒でした。父の妹で、私の叔母は新しいことに好奇心のある人でした。私が8歳の頃、家の近くに英国聖公会の宣教師の方々が伝道館を開いた時、叔母は私を連れて、日曜礼拝会に参加しました。私は、外国人が珍しかったのと、聖歌を教えてくださるので喜んで叔母について礼拝会に行きました。そして友達と一緒に、大人の方々に混じって大声で聖歌を歌いました。子どもの頃に脳裏に刻まれた聖歌は忘れ去られることなく、シスターになってからも何かの折に鮮明に湧き出てきて、それによって私は度々励まされています。

461番
(1)主われを愛す、主は強ければ、
われ弱くとも、恐れはあらじ。
くりかえし
わが主イエス、わが主イエス、
わが主イエス、われを愛す。

(2)わが罪のため、さかえをすてて
天よりくだり、十字架につけり。
くりかえし
わが主イエス、わが主イエス、
わが主イエス、われを愛す。

この聖歌を阿蘇地方の方言に置き換えて、私は得意になって歌ったものでした。「主は、オドンバ(われを)ムゾガラス(愛して下さる) 主は、ツヨカケン(強いから) オドンナ(われは) ヨワカ バッテンガ(弱いけれど) オジゴト ナカタイ(恐れることはない)」

その後、私は女学校を卒業して、教会幼稚園の保母助手となり、また英国聖公会の洗礼をうけて信者になりました。その頃、私は英国人のミス・フリース先生に憧れていて、私も宣教師になりたいと夢を持っていましたが、第二次世界戦争が始まり、私の両親は私が看護婦学校に入ることを望み、私は女学校の恩師の援助で京都府立医大看護学校に入学できました。卒業し、国家試験もパスし、働き始めた時、肺結核にかかり入院患者になりました。その間、友達にカトリック教会の公共要理の小冊子を貰い、故古屋司教様の要理のクラスに熱心に通うようになり、1951年の聖母の被昇天にカトリックに改宗しました。1953年3月に肺結核全治で退院し、その年の9月に、両親、弟妹、親戚の反対を説得して、めでたく念願の修道女になることを許して頂きました。
私は、修道女になってからも、大阪池田教会の児童館で幼児教育を行い、のちの聖マリア幼稚園の基礎をつくりました。京都に戻り、聖ヨゼフ整肢園で言語治療士として小学生や幼児と関わりながら、1998年3月に引退するまで、神様が下さった使徒職を、神様の助けを祈りながら一生懸命生きてきました。今は私にできる奉仕をし、もっぱら祈りに専心した日を過ごしております。お恵みの日々を感謝をもって生きております。感謝!!

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●シスターメリーマグダレン林

「どうしてシスターになったの」・・・これは度々尋ねられる質問です。「さー、どうしてでしょうね。」
高校1年のクリスマスに受洗の恵みにあずかった私は毎日朝晩教会を訪問していました。京都市内のカトリック高野教会でした。
やがて、シニアのレヂオマリエ(マリア軍団・・聖母マリアへの信心のもとに活動する団体)に入会、毎週の集会と週2時間の活動(家庭訪問、病人訪問、土曜学校、その他)、祈りと実践の報告の集会に一度も休むことなく出席し、8年続きました。

高校時代に親しくしていた友人は或る修道院に入会、もう一人の友も、また別の所に入りました。病気がちの父を看取りながら、6人の子供たちを世話している母をおいて自分の望みをなかなか言い出せなかった私でしたが、私の心の中にはいつも何か呼びかけられいている感じがありました。
病院訪問をしていた時、入院中のTちゃんは両親はなく、脳性麻痺の体のあちこちを手術されていました。言葉こそ出せないだけで、全身で私たちの訪問を喜んでくださいました。その時、私は、「こんなに喜んで下さるなら、私の生涯をかけても神様の愛を伝える者としての生き方を」と修道院へ入ることを考えました。そこにはいつも訪問する教会で静かに祈られる司祭やシスターの後ろ姿がありました。何もわからないのに、真似をしてロザリオを唱えたりしました。聖母マリアさまは私にとって大切な尊敬する愛するお方でした。毎日聖母の小聖務日祷を祈り、ロザリオの祈りを唱えました。やがて弟も大学を卒業、何とか将来の生活にも目途がつき、夜中まで話し合った後、自分で決めたことを実行するために聖ヨゼフ修道院の門をくぐり入会の希望を院長様にお伝えしました。

レジオの活動を通して関わった子羊会(身体障害者の信心会)は、50年近く経った今でも、私の召し出しの原点として強く修道生活の支えとなっています。現在も、弱い立場におかれている高齢者の福祉のために、三重県松坂の地において、喜びのうちに精一杯の奉仕をさせていただいております。神に感謝!

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●シスタージョセフィーナ廣野

私は中学1年の時、友達について行ったのがきっかけでプロテスタント教会へ、しばらくして西院カトリック教会へと通い出すようになりました。カテキスタの方に公教理の勉強をしていただき、神様との出会いが生じました。日記帳をイエス様宛の手紙形式にし、毎晩、祈ることを大事にしていましたが洗礼という事を頭のレベルで受け止め、もっと良い子でなければならないというプレッシャーもあって、教会から遠ざかってしまいました。

母に聖母像やシスターの陶製人形を買って貰い、私だけのホーリーコーナーを設けたり、高校はチャペルに憧れて聖公会の高校を選んでいました。20歳の頃にまた教会に戻りましたが、受洗までに至りませんでした。でも祈ることは続けていて、ずっと心の中では洗礼の事が気になっていたのです。ある時、週刊誌に小さな島にある修道院が載っており、畑仕事の修道女の姿が映し出され、祈りと簡素な生活についての説明を見たのが、最初の憧れが生じた頃です。それまで神様は私の歩みを見守って下さっていると思っていましたが、私の人生に強く介入されたと確信する出来事を体験し、修道院を尋ねてみようと決心するまでになりました。そして家から近い龍安寺前の本部修道院を尋ね入会について話を聞き、すぐに教会で受洗する準備を始めました。

受洗のために神様は素晴らしい神父様を準備し、もっと神様へと近づけて下さり、13年かかって漸く受洗できました。私の中で惹かれていたものが益々、明瞭になっていくのを確信しつつ、私は憧れの気持ちが、神様からの召し出しである事を願って毎日、召命の祈りを捧げていました。そしてどの修道会へ入れば良いのかも祈っていましたが、私にだけ分かるゴーサインを受取り、最初に訪問したこの修道会を志願し、修道生活へと歩みだしたのです。

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